棄教せぬプロテスタント、としての現状認識。
ここ数日。夢現であった。
プロテスタント各派の、[ヨハネの黙示録]の、クライマックス。
その若干の解釈の相違なるもの。特に、白い馬のそれについては。
まるで走馬燈のように。よく聞いたものだ。もう、そんな歳になったのか。
プロテスタント各派にしたって。各地に点在するその地域に佇立する、その教会の同会員にしても。求道者、及び初心者を抱える集会では、そのような話は、皆全員で祈る会場で。たとえば、長老クラスはしないだろう。おそらく。
「フランス山の母子像」にしても。原作本を買って。代金を支払った本人だからと。いきなり、あとがきから読み始めても。差し支えない。
私は、それを投げ出したが。理由は、被害者たる彼らが最終的に。皆亡くなった、を知った時点で。耐えられなくなった。ひとりでは無理だから。
家族に投げ出して。彼らに渡して。ひとりが背負えるは、せいぜいひとりなのだ。
記憶の中に。父親に肩車して観た、体育館内での公演。舞台上で、戦後まもなくの頃。
かって、都心は新宿、靖国通りを、西。その方向へ帰ろうとする、親子三人連れ。彼らとすれ違う瞬間、見上げたは、頭上の幼児。その小柄な伴侶の横で、幼児を肩車して巨体に見えた父親の後ろ姿。在日米軍の家族だろう。彼らが休日の繁華街での、帰途である。
とても美しく観た。まるで映画のシーンだ。夕陽に向かう。
それは、彼らの家族愛が、本物。を実感したから。