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「郷土史家」の代打、になって。祝日を、祝日 足らしめんが為。その.1
佐倉の🌸を、もう観る暇はないだろうから。
再掲。佐倉宗吾には、二度行った。一度の心算だったけど。
一度目は、菊人形館。やはり、家族連れの観光も兼ねて、全国から集客しようと。おもえば。菊を纏った、佐倉宗吾一家の時代絵巻は。それは水呑み百姓、農民であろうと。年貢米生産するは農業、大名や武士の知行高の単位。銀シャリでござんす。
天皇、皇室がご紋章、菊でしょう。東京は、靖国神社。境内右に、棚段に飾るは、奉納の黄白の菊花でありまする。明治政府、開闢以来の、海洋国家。国家威信の象徴、軍艦の船首。それも、然り。
食の生産者たる農民。彼らが、干ばつ日照りの自然災害時。当該藩の、理不尽な対応。不正な年貢徴収。それらが重なれば。訴えるは、道理の内。甚兵衛渡しがある。
さて。私的発見で、もの申す。武士道のそれが、「仮名手本忠臣蔵」ならば。農民は「佐倉義民伝」。共に、歌舞伎界の、財産、不況時の当たり本。「曽我物」もある。
それで、二度目に行った時、入館果たした宝物殿。館内展示は、直訴本人のみならず。連座を免れなかった、子供たちの、当時の一枚着。これで、飢饉の越冬は、酷。
何故、そこまで悲惨に扱われたか。通説では語られぬ、何か。
確かに、結果直訴にて。印旛沼近隣の名主、代表の宗吾がお咎め、死罪はやむを得ぬ。
譜代大名が面目丸潰れ。更に、年貢米計量枡の水増し収奪、の発覚は、家来役人の権限乱用。
それが、南は島津の外様。北は松前の遠い藩まで。参勤交代で、江戸に登城すれば。
御家断絶まで行かずとも、全国外様まで周知された。かなりの失点。
佐倉城主は、当時三代家光幼少の砌より、そのお側近く。遊び友として育った知友。
その彼から、数世代目の当主、の時。先ず、藩主へ直訴も、拒絶され。
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平成の世。「佐倉学」が聴講生を集め。その佐倉城主の歴代藩主、寛永19年(1642年)に堀田正盛(継祖母春日局が乳母を務めた徳川家光に寵愛され,後に家光に
殉死)が松本から着任した。禄高は11万石であった。
(引用:佐倉城の歴史と堀田氏 ニューガラスフォーラム)
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譜代でも、将軍家に殉死。いや、譜代故。幼馴染の仲、親友故。
美食と大奥で、病床の江戸城主。その為、堀田家で最初に佐倉城主になった正盛は詰め腹切らされる。否とは言えぬ。武士道残酷物語。
平成以降でなくとも。無理心中だわさ。
これって。将軍様から臣下藩主への不条理。それから、数世代経ての、藩主を。差しおいて直訴の、藩主から領民名主への理不尽。
負のトライアングル。
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昔、就職の面接で、近所の病院。次いでに、佐倉城址の国立歴史民俗博物館を訪ねた折。周辺の武家屋敷等見学したが。
博物館設立、その地で竣工は。佐倉宗吾の一件。無縁とは、とても思えんかった。
内地と呼ばれた、北の大地。北海道でさえ、品種改良で、本州と変わらぬ。銀シャリが食卓に配膳されたのだから。何時の時代も、農業関係者。旅行のガイドブック必携の訪問地であろうや。
その地での就労、叶わんかったが。転んでもただは起きぬ、ならぬ。走っても、ただでは帰らぬ。吉川英治が母堂の生地。近くが、馬頭観音にも寄った。
千葉は、林業も盛ん。JRで、県境の東端、犬吠埼。内陸部、東西要衝に、名称からしての、八日市場駅がある。その駅から、北上するに。曽我兄弟所縁の寺院、医光院がある。
平成の大合併頃か、名称変更以前の川辺にあった社福法人に、九十九里浜訪問の帰途、新施設を確認。その後、八日市場から北上、山桑に至る。住職が常時在中には見えなんだ。墓参を済ませ、奥に広がる緑豊かな森林風景。夜間照明用らしき白い柱が数あって草野球場。雨上がりの、そこへのコンクリート路上。かって見た事ない、巨大なミミズが、雨に狂喜、踊っていましたね。ちいさな虹を見た。____________________________________________________________________
「郷土史家」の代打、になって。祝日を、祝日 足らしめんが為。その.2
「平成市町村大合併」。当該住民に、賛否両論あるは、致し方ない。この大改革も、いわゆるお上。国策の、オリ・パラリンピック開催。それと、連係する。各地方、地域の老朽せし、主要幹線道路。その改修、補修の立案。議員立法の国会通過。
[技術革新]は、その業界単独のみならず。隣接周辺とJV、チーム編成して。大プロジェクト。
納税者住民からは、せいぜい自己が居住の地方自治体。「住めば、都。」言い当て妙。
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都民と、県民の違い。
これも、再掲。関東平野、坂東太郎は、利根川。河川は、河口。大海へと流れる。
下流にありせば。自然の摂理で、水は流れて来る。
しかし、地方交付税が配布、それは、違う。現状、1都1府、そして某企業城下町を抱える1県。確か、それは、令和になって数年。今も基本、変わってないのでは。
警視庁と、県警の違い。私は知らなくていい。
単車でも、複数でネズミ捕りする。追っかける、公安当局に、採用するオートバイメーカー、企業秘密を問うた覚えはない。
だから。坂東太郎が、帆船で荷物に都からの交付税を満載して、下流の他県に無料でボランティアの類。では、ないでしょう。
極論なんだけれど。
仮に。坂東太郎を熟知してるはずの、冒険知事。もとへ、某県知事が。台風銀座の日本列島。データ頭入ってるんでしょう。
就任当初、東京湾横断道路「アクアライン」有料化。あの施策は、よかった。
しかし、数年前の台風15号及び19号来襲時の対応。あれで、廊下で転倒か、老化が露見。県知事はトップ。本人が、肝心な時。一歩前に出て、陣頭指揮取るの、当たり前。それを、逆に引いて。実質二歩後退。あろうことか。自宅周辺を車で徘徊の真似。
これでは、納税者住民の公費で、賄って野郎。もとへ、やろうとは思わんだろうよ。
クリスチャンで観なくとも。二歩後退は、「否、否。」
県知事の権力は、対岸に火事。あらば、即座に連絡を取り、状況把握の体制を、相互確認する配慮。県知事は、隣県の同士は、隣人でしょう。坂東太郎に仲介の労無くとも。
江戸時代の、城址を擁するだけの譜代大名クラスではない。単なる市長ではない。
なのに、反って、迷惑かけるだけの体調維持管理。ならば、誰にでも来る、寄る年波。
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東日本大震災時。[tsunami]は高浪となって、押し寄せ。『ヱマオ』学園は、呑まれてしまったのだろうか。私は知らない。
グーグルマップで視ても。それ以降に再建したか。もう、よう見えん。
しかし、海辺から、現在町立となった施設建物の外観。その距離空間に、田んぼが見えんは、季節柄なのか。稲刈り過ぎたからか。
施設入口まで、海水が浸水したなら。その間の距離空間の田畑は、落花生も含めて。
塩害で、作付けできぬだろう。
農業従事者でない個人には、情報さえ。己から調べずば、わからない。
「ヱマオ学園」消滅。それが、もはや史実の過去ならば。何をかいわんや。
東日本大震災からの、復興。そして[余震列島]。
国内、高齢化の老人。その脳内キャパシティーなど、そんな処だろう。
彼らが、「ヱマオ学園」消滅。それが連呼、耳にするを厭うのが。
先人先輩たちの、名誉と功績。それが払拭、記憶から消去。その安心安寧の背もたれ。それが外れる怖れなら、いざ知らず。
先人先輩たちのそれらに寄り掛かって居たい。ならば、甘いな。
外洋、九十九里浜からの潮風。いや、塩風は。
「ヱマオ学園」が消えても。「地の塩舐める」に同じい、背水の陣。
それを、その地に勤める彼らに、示唆してるように。おもわれる。
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ゆめゆめ、それを探して。時間と労力を、消耗するなかれ。徒労するなかれ。
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「つくもホタル」♪が、彼の時。海水被って、絶滅したか。知らない。
おそらく、私にとって。「ヱマオ学園」その最後の記憶、冬なのだ。
対コロナ禍下。
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[拉致事件]に巻き込まれた、多くの被害者の方々。二十歳の成人式。この国の祝日。
それを母国で迎えられない。
本人の意思であろうはず無い、異国の地での、幽閉。義務教育半ばの中学1年女子生徒も含めて。理不尽です。
しかも、音信不通。40年間は、不条理でもあります。
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祝日を、祝えない。もどかしさと、苛立ちを、覚える。
恒例になってはならぬ、してはならぬ。そんな集会が、東京は、文京区春日町交差点前。文京区民センターで、公開されています。
春日町交差点とは、徳川家家光が乳母春日局所縁の地名。センター利用の理由は、その十字路に在る派出所が多数警官を駐在で、万一の際。緊急出動が容易、と。
東京連続集会も、110回を越えて。
昨今。「全拉致被害者の即時一括帰国を!」のスローガンの元、団結を固く、
頑張っております。