かいふう

近未来への展望や、如何に。

11年前のその日、から約10日後。

kaihuuinternet2006-01-17

帰途の航空便、広島新空港からの予約チケットを伊丹空港からに変更したのは、この大震災のニュースを知ってであった。それでも旅行自体は、行く事にした。空路鹿児島、開聞岳を海岸から望む指宿で一泊、翌日近所の家の奥さんの後ろの席から、会話しながらバスで駅へ。タクシーを割り勘で、どこかの教授とその助手カップルと、目指した先は知覧、かっての陸軍特攻基地跡である。教授とおぼしきは、その生き残りかと想像した。[特攻平和会館]館内を一巡して休憩の長椅子に座った途端、「上を向いて歩こう」♪が脳裏に浮かんで、歌詞のごとく零れない様にしばらく顔を上げたままだった。西鹿児島駅構内で本場の薩摩揚げ熱々を、一路北上大分でホテル、翌日豊後高田行きバスを待ってる間、駅まで同乗して来た老婦人と孫なのか目の不自由な双子と会話した。そのひとりは日盲連の会長の名を知ってると答えた。湯布院に湯治にという。切支丹大名がかって治めた半島からフェリーに乗り、徳山港へ、この海上は60年前、戦艦大和以下水上特攻の往路でもある。そして、大津島隧道へ。
明石大橋の反対側の新幹線車窓からは、家々の屋根屋根がブルーシート点在の光景であった。姫路駅前で天守閣シャッター押して、某交通社に伊丹まで問うたが、その駅が不通だという。{ヤジ馬}は、スーパーで台車とそれに載るだけのポリ容器とペットボトルとを、{子連れ狼}キドって、在来線ホームヘ。須磨駅が終点、ゴトゴト歩くと海浜から母子殺気だってる。ポリ一個渡して、湊川教会にてはパスで、区役所へ。もう各地からの給水車やらテントが広場をうめていた。所内は混雑、松葉杖の少女が廊下にブルーの大きなポリバケツで手を洗う。ガード下くぐって、隣町公民館で終着。もうこの周辺は軒並み瓦屋根の家屋がぺっちゃんこ。須磨駅改札で訊いたトイレ、感じない。国道に出たら、頭上の並行する高速道路片側に横倒し。それでも一部鉄パイプ組んで作業、もう10日程だものな。長田地区だろうか、六甲の山並みまで、焼け野原で見渡せた。もう更地もみた。市内近くでタクシー降ろされ、生田神社の社殿も倒壊、某ホテルの隣接ビルはでんぐり変えっていた。三ノ宮駅から神戸新庁舎、バス大通りを挟んで群集が往復する。神戸新聞社の社屋、中程が潰れてる。同じ高さのビルは同じ現象である。新庁舎玄関はライト数浴びて女子アナが実況中継中、すり抜けて入ると、ロビーは柱周りに被災民がダンボールで埋めていた。やっとトイレ使った。
新大阪駅まで乗り継いで、そこからタクシー、前席運ちゃん急かしながら、空港着。どうにか機中に滑り込んだ。怒鳴って座席にリュック投げ棄てた。オーバーアクションは当番外スチュワーデスを気にして。機長がアナウンスでなだめてたのは、自分じゃないだろうな。
6434人の犠牲者を記憶に留めよう。(掲載写真は読売新聞:2006.1.17)