かいふう

近未来への展望や、如何に。

空虚と絶望。

kaihuuinternet2006-08-27

死に至る病は絶望である』。このなんともややこしい定義は、アルキメデスピタゴラスか忘れたが、数理のそれでないことは確かだ。以前この国で、彼らの名を表題に推理小説がかなり売れたという、記憶がある。
で、『死に至る病は絶望である』の方は、40年前の某参考書には、北欧のキルケゴールという哲学者の言葉。その書では、有神論の実存主義の先駆者、という位置づけである。
今日は主日であるからして、彼は含まれる、とおもいます。彼は、出生の秘密にショックを受けて、婚約を破棄して、孤独と憂愁の晩年を送った、そうです。
こんな暗い陰鬱な定義で、それを受け取る学生に、何のメリットがあるのか、今もって疑問だが、要は考えさせるのが、そして自分の頭で考えるのが哲学というものの本質とやらならば、オチではないが、若い学生の参考書にはなるんだろうな、と。当時の時代背景と、北欧という赤道直下の国ではない白夜の地方の生活者として。
彼が先駆者ならば、その後輩たる時代を後の若人は、ならば彼の後継として、何を継承せねばならないのか。
彼は三段階をあげている。美的実存→倫理的実存→宗教的実存。
各自、道標は今如何なる宿場か推測されたし。
スフィンクスの謎より、明解でしょう。喰われる恐怖もないし。
有神論の実存主義、これが答えだろう。有神論が、日常の信仰と祈り、それの代名詞だろうから。
その参考書では、系譜としてヤスパースをあげている。ハイデッガーナチスと絡んだので、回避する。
ここまで、時代と格闘した哲学者の流れで、20世紀の前半まで来た。勿論、時代と格闘したのは彼らのみではない。むしろ、時と場においては、将兵たちという軍人が、世界史の最前列に否応無く立ち、矢面に立たされ、一弾を額に受け斃れていった。
この国には、「戦友」♪、「海ゆかば」♪という名曲がある。その性格は軍歌である。しかし、その詞の情景は、戦場のそのままであり、歴史のひとつであることは間違いが無い。海戦でもって、その直後、敵戦闘機が飛来して機銃掃射を浴びるかも知れぬ最中、船内からの木片に波間に揺れつつ、戦友と唱和したその歌を聴かなかった、と誰か言わなかったか。いいや、その光景は幾つもあったのだ、おそらく。それを想うことをしなかっただけだ。その想像力を棄てたが故に、国家存亡の危急が見えて来ない。先の終戦の月だ、ご容赦を。
話を戻そう。20世紀の後半からだ。60年間、この国この列島に戦争は無かった。そして冷戦は幕を閉じた。
「系列」という日本語はもはや国際的なビジネス用語として定着したが、自身の系譜は、それでは何処に在るか。
空虚と絶望が、漂った。自分の気持ちを。数日前の事故、事件である。少子高齢化は言われて久しい。おそらく、戦中派のお祖父さんは、3人の孫とのこれからの日々を楽しみにしていたことでしょう。ご両親もこれからの日々を何をどう順序よく教え育てるか、希望に燃えていたことでしょう。
我が孫たちを二度と抱き上げること叶わぬ、その身の両手の空虚。
我が子たちを二度と抱き締めること叶わぬ、その身両親の絶望。
自分には到底わかりませぬが、お察し致します。