かいふう

近未来への展望や、如何に。

ある作家兼市民運動家の死。

作家で市民運動家小田実さんが30日午前2時5分、胃がんのため、東京都内の病院で死去した。75歳だった。

大阪市生まれ。13歳で大阪大空襲を体験したことが創作と市民運動の原体験となった。東大文学部を卒業後、フルブライト奨学金を得て米・ハーバード大に留学。帰国後の61年、世界旅行記「何でも見てやろう」がベストセラーになり、後に若者の海外旅行ブームにつながった。

65年には開高健鶴見俊輔さんらと反戦市民団体「『ベトナムに平和を!』市民連合(べ平連)」を結成。以降、数々の政治運動にかかわりながら、被爆した米人捕虜が主人公の「Hiroshima」(81年)や、混迷する世界状況を描いた大長編「ベトナムから遠く離れて」(91年)などを精力的に発表した。

95年の阪神・淡路大震災では兵庫県西宮市の自宅で被災し、自然災害の公的援助を求める市民団体を結成。一方、震災の衝撃は「『アボジ』を踏む」(97年、川端康成文学賞)に結実した。

また、2006年には9・11テロに衝撃を受け「終わらない旅」を執筆した。今年5月に末期がんであることを公表した後も、護憲運動「九条の会」の活動などを続けていた。

小田さんは今年4月から都内の病院に入院し、がんの治療を続けてきた。家族らの話によると、先週ごろから容体が悪化し、意識不明になっていた。闘病中は食事がのどを通らないことも多く、やつれたが、最期は苦しむ様子もなく、穏やかな表情だったという。(読売)
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反戦市民団体「『ベトナムに平和を!』市民連合(べ平連)」の出現は、当時ハイティーンの自分には、大人の市民運動、の典型みたいに、強烈だった。
自分で仕事を持って生活して、家族を養って、なお先鋭的に論理をもって展開する。討論覚悟だから、公的広場で聴衆に語りかけるのだから、かなりのインテリでなくてはならない。
ハイティーンなんて、およそ、それらのカケラ、は少し詰め込んでいたとしても、未だ詩的ではあっても、対談する論理の断片も構築しはしない。青春前期は、恋とか憧れとか、夢想する年代でしょう。
交通事故で、あるいは稀な難病で死ぬ確率は、無意識の下に閉じ込めても、謳歌すべきは友情とか、進路とか。
単純のまま置いといて、戦争当事国でない国の市民が、反戦を、それがいまひとつピンとこなかった。
だから、それらを行動している彼らの、せめてキャッチフレーズでもと、小田実さんがベストセラーの「何でも見てやろう」の、それを鵜呑みにした。ベストセラーだから、同感した人が多数いるだろう、幼稚な発想である。
で、それを実践したのが後年、自分の場合、名画何でも見てやろう、である。キネマ旬報で、その月TV放映の●だけを探していた。

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先年、某会社の店頭カウンター越しに、その若い営業員が云うに『学生時代に1000冊本読みました』。そうか、その違いが、カウンターのそっちとこっちか。
『自分は学生時代に1000巻名画観ました』なんて返答するのも大人げないから、しなかった。然らば、彼の言が真か、名画で肥えた眼力で、というも大した得意先でないからな。母校は同じでも、息子のような若い営業員であった。景気に左右される業界故、その後故郷の店に転勤なったようだ。
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だが、ベトさんとドクさん、彼ら同様の人たち、の支援に次世代の若者たちが何をすればよいか。示唆と展望を課題として残してくれた、とおもう。哀悼の意を表します。
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つくづく、小説という形式と、劇映画という総合形式の相違を、痛感します。
監督と、売り出した新進女優。会社も興行成績がよければ、文句無し。書斎にひとり篭り、己の想像力だけで紡ぐ作業と、観光名所の風光明媚を背景に、時には際どく、観客をカラーの美学で満たすなら、主演女優も若い旬な記念に、同意するでしょう。映像美で流れていきました。恋愛映画に脚本は添え物、の感あり。
篠田正浩監督では、「暗殺」、「心中天の網島」は名作だとおもう。幕末の田舎出の剣客清河八郎を、丹波哲郎が持ち前のカリスマよろしく、ラスト、すれ違いざま、木村功の弱い侍に、武芸の達人が被る台形の編み笠、挨拶で手を顎紐外す隙に、倒されるシーン。参考になります。そこまで、どうしたらより強い相手を倒せるか、観客を引っ張るのも、演出力でしょう。
山村聡さんの出演作、順序でいくと、「山の音」、「連合艦隊山本五十六」、そしてこの作品川端康成原作「美しさと哀しみと」でしょうか。
山田信夫脚本は、「華麗なる一族」は、確かそうでしょう。この作品観て、何所に住んで居るんだろう、とおもいました。

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山本薩夫監督の映画の秘密を見せてもらった者のひとりです。
ある日の撮影現場での監督のサービスです。
その作品が「華麗なる一族」でした。芸能記者でもなければ、スタッフになれる訳でもない。それで、絵コンテを見せてもらいました。二谷英明さんが重役室で部下たちに『胸襟を開いて』と会話するシーンです。そのセリフまで、カメラで数カットをたたみ掛けていくんです。そして、また同数ほどで引くんです。
その方法を、拙者ブログでも使わせてもらいました。
再度会ってます。その映画ではなかったとは思いますが、監督直々の講演もあり、その映画館の廊下で、声も掛けずじまいで。「箱根風雲録」からの社会派リアリズムの重鎮ですから。その映画館も後年聞いたところによると、コント55号の片棒の方が所有してスーパーにした、とか。映画界も困難な時期にさしかかっていたのですね。タレントが無い者には、そちら側へは行けなかったのです。
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最敬礼して、若い兵隊さんらを見送った少年たちは、だからこそ、戦後の平和の有難さを、それらも含めて、身にしみて、承知していた。重ねて、だからこそ、喜びという対極を極めることを、身体全身で現すことも、河原乞食までも、生きて帰れるのだからと、汗水たらしてまで、観客に娯楽を提供するのを、対価を得るのを、仕事とするのを、徹底したのだ、とおもう。
観客側で居られた、ことを有難いと、おもいます。
コント55号も、それだった。
だから、往っちまうと、さみしい。悲しい。
この感じは、残された相方、の彼だけの感情じゃない、とおもいます。