かいふう

近未来への展望や、如何に。

教師は選べないともよく云われたが。

ブルーリボン

毎木曜日の夜間は、通っていた教会の、定例祈祷会であった。水曜日夜の教団組織もありましたが。独学でも、[聖書]掲載最終章、「ヨハネの黙示録」だけは、難解で。市販の解説書参考書では、不安でした。やはり、尖塔のある教会堂で、その居室で、数人集まれば。その中に彼は居るのですから。日常時空間を超越して。その教会の専任牧師と最長老から、要点講義を受ければ。その体験の記憶が、後々。感謝。
表題は、学校でのそれ、です。それも、「昭和」の、戦後の時代の話です。世俗での流行語であったかも。小中学校は、勿論義務教育でした。制服があった。教壇はなかったが。教師の方々、皆戦中派。親友亡くしても。本人生き残った幸運で、威厳も風格もあり、熱情に圧倒されての、授業。父兄参観。
しかし、それは更に。担任を指す場合が多い。波長が合わないというか。担任と口げんかする生徒もいた。でも、義務教育ですから。
しかし、高校は違う。すでに義務ではないですから。担任に、己が、同様状況該当した。
言葉を換えれば。垂直志向と、水平志向との相違でしょう。戦中派垂直志向。戦無派水平志向。この差は大きい、というか。ベクトルが違う。「大東亜戦争」と、「ベトナム戦争」は、違って当たり前。親子で親子丼出前で注文しても。世代間は、親友の方が解ってくれる。「平成」の御代は、少子高齢化。生徒が担任や担当教員を査定、の校風も数あっただろうか。
その御代が代わろうという師走も近い。なのに、中学の義務教育ですら、奪われて。40年の長きに不在。それを、もはや【国難】と思わなかったならば。この国の先行きは危うい。
その被害者少女は、母国語の教師さえあてがわれなかった。その暗闇は、未だ払拭されてないのですよ。