かいふう

近未来への展望や、如何に。

主日

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エス

長崎、被曝75周年。

本日も、あの日のごとく、暑かった。

会場の大テント。列席の首相の顔に、手前に霧らしきが流れた。

「水っ、水っ。」と呼んで死んでいった被爆者。彼らの声が響くのに。応えるがごとく。

途切れなく、透明な水を。数ある噴水が天に湧き上げてある。

それが、炎天下。水蒸気で、会場に動き流れた。

そう想った。

ライブ配信が視聴料。貧爺は、スマホに限定の身故。その受信画面では、奉納合唱も、長崎市長の表明も、首相の演説までも。すべて、口パクで視る。

聴覚障がい者として。それで聴けば、済む。

後で、PCで、視聴すれば。

止めどなく流れる泉の水。それではなく。会場に流れたは、数ある回転する扇風機が放ったは、コロナ禍対策用のそれ。

そう見えれば。合唱する生徒たちも、数メートルの間隔取っていた。

テント下の列席者も、その座席も同様。

斯様に、100年に一度とWHOの専門家も形容した。コロナは、現在進行形なのだ。

被爆地、平和祈念式典。その会場とて、例外ではない

むしろ、ここに集った。世界から参集した、各国要人。彼らが日本で罹患した。

そんな汚名を被らない。その配慮が、為された。

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 [聖句]からの、引用はない。

私は、それを見つけられない。

祈りはした。誰もがすることだ。

アーメン

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広島原爆の日の6日、長崎市内の自宅でそっと目を閉じ、手を合わせた。平島アヤノさん(83)。広島と長崎で原爆に遭った二重被爆者だ。脳裏に焼きついた二つの被爆地の惨状。「もう二度と原爆はだめ。平和が一番」。その言葉を何度もかみしめた。
 長崎市大浦川上町(現・川上町)に生まれ、日本軍の飛行予科練習生だった兄がいる広島市へ一家で移り住んだ。
 8歳だった。爆心地から約3.5キロの国民学校のげた箱で履物を手に取った時、閃光(せんこう)が走った。崩れ落ちた建物の下敷きになり、わずかに見える外の光に向かって這(は)い出た。
 負傷した足で帰宅。幸いにも両親、きょうだい4人とも無事だったが、米びつをのぞくと爆風で砕けたガラスの破片でいっぱいだった。家の前を遺体を積んだリヤカーが通っていた。
 10日、一家は着替えも持たないまま身一つで長崎に避難し、入市被爆。変わり果てた町の光景に息をのんだ。黒焦げで性別も分からなくなった人がゴロゴロと転がりながらもがき苦しんでいた。どうしてやることもできなかった。爆心地付近で電柱に見えた“黒い柱”。手を合わせる人を見て、それが立ったまま爆死した人だと気付いた。
 2度の被爆。戦後の人生は苦難が付きまとった。長崎では住む家もなく、父が建てた粗末なバラック小屋に身を寄せた。「布団もなくて。姉と抱き合いながら寝た」
 体の不調も続いた。のどが大きく腫れ、手術。30歳を過ぎてからは卵巣腫瘍を患うなどした。
 あの日、もがき苦しんでいた人はどうなったのだろう。そのことが今も頭から離れない。助かってはいないと理解している。でも、もし生きているのなら聞いてみたい。「家族とは会えましたか」と。そのことを考えるだけで悲しみで胸がいっぱいになる。

 「自分よりもつらい体験をした人は大勢いる」からと、これまで被爆体験を語ることはほとんどなく、3人の息子にも数えるほどしか話してこなかった。だが、きょうだいも全員他界。「もう残された時間は多くない。話して楽になりたかった」。昨年、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館に体験記を収めた。でも、やはり思い返すのはつらい。「これが最初で最後」だ。

 今年、初めて広島の平和記念式典に参列予定だったが、新型コロナウイルスの影響でかなわなかった。長崎でも鳴り響いた午前8時15分のサイレン。広島の方向を向き、黙とうした。「こんな経験をするのは自分だけで十分。(これからを生きる人たちには)平和な未来に向けて前を向いて歩みを続けてほしい」。そう願っている。 (長崎)

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「長崎平和祈念像」の北村西望のアトリエがあった。関東は首都圏、某市内に、先年居住したは。

それも、そこに住んだ要件のひとつ、と思う。

 

 

 

 

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