28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
マタイによる福音書第十一章28~30
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32 また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。
34 イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。
35 そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。
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主日に、『キョウ言』も、なんだけれど。
「同じ土俵の上に立たなければ、反論も。批判も、批評も、ままならぬ。」
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明らかに。譬えています。[聖書]には、譬え話が多いので。それに、倣っています。
お解りの事と、存じます。
クリスチャン、その箸くれよ。もとへ、端くれと云えども。
批判も、批評も。更に、時には。反論さえも言わざるを得ない。
オリ・パラリンピックも近い。三段跳びも、見られます。いや、見たいですね。
その日を、迎えたいです。
「スモウ・レスラー」という、外製英語も、既聴しますから。
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二十歳過ぎて無理解するは、自閉症症候群。
若いのだから。マルコポーロのように。「見聞録」で、逆に、西方を見てやれ。
理解を為さず。自家に閉じこもってる、は病的に見えます。かといって、外出して、暴徒の群れに取り囲まれても、困る。為さずは、自己の怠惰でしょう。
彼女のように。三重苦でないなら。出て行って、しっかり観るべきを見ましょうや。
時には、三重苦でなくとも。彼女のような、彼女。会えるかも知れません。
それが、逢えるに変わるかも。そういう変化は、歓迎します。
野郎だから。対象を、若くて、可憐で純情な。それにしてしまいましたが。
最も。彼女の周辺には、既に。理解者も、知人も。そして、親友も居ますから。
視るも、聴くも、そして会話するも。難しいですよ。
「有難う。」
そういう間柄になれたら。それは、難しいが故。無為からの脱出、に当たる。
主の祝福の範疇です。あなたは、彼らに、主の栄光さえ、見るかも知れません。
お気に入りの障がい者を、あなたが発見しても。いいのですよ。
オリ・パラリンピックも、近い。
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還暦過ぎて誤解するは、恥。
もう、視るも、聴くも、会話するも、御免だ。
還暦を迎えた、は分別盛りを過ぎて。もう、お婆さんですから。
そういうお婆さんも、居たっけな。
「怪談ごっこのムジナ女」、そんな難儀は、背負わぬ事にしましょうや。もう、終わりにしましょう。
還暦過ぎるまで。語彙の数も増えたでしょうから。言って聞かせれば、分かるはずですが。それ以上は、不要です。説得まで面倒は、不用です。
ああ、あれっ。「怪談ごっこのムジナ女」は、還暦未満の、自閉症症候群の変形、なんですよ。ビョーキですから。専門医に、保険証持たせて、任せれば、いいです。
心療内科は、納税者に、門戸を開いています。
気障の、ケースですね。
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十字路に佇んで曲解するは、罪。
曲解する、そのものは。軽いものだと、思います。
[私の軛は負いやすく、その荷は軽い。]のですから。十字路に佇んで、曲解するは、止めましょう。ミドリのおばさんに、要らぬ心労を掛けては、成田山。もとへ、為りませぬ。
多少、呂律が怪しいですが。右か左か、曲がるのは、あなたです。いいですか、あなたなんですよ。曲解せずに、曲がればいいんです。ハンドルの遊び、はその為にあるんでしょう。
どうせ、佇んだんですから。『曲学阿世』を死語とせず友。もとへ、とも。
自動車に線路は在りません。在来線ですか。運転してる者が、佇むは、論理破綻ですね。些か、脱線した。
クリスチャンが、十字路に至って。曲解するは無い。この事です。
無いのですから。罪に問われることもありません。
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しかし、十字路に至って。彼らを見ました。
対峙して。対決するやも、知れません。彼らが、こちらへ歩を進めるならば。
それを、阻止して。抵抗せねば、とも思います。
彼らは、『虚構の宗教』を掲げました。
宗教たるもの。虚構であってはならない。これが、個人的な信条である者にとって。
ある者が、己は再臨主だと錯覚して。ありもしない妄想、『上乗せ』に便乗よろしく。
仲人役やりたがりで、自己で伴侶を選べない未熟者青少年をば、騙し欺く空想をひけらかすならば。
我われは、断固、それを阻止。防御を固めるしか、他知らず。
しかし、その野望は、砕け散った。自己錯覚教祖は、死んだ。
大言壮語の割りには。あろうことか。ご丁寧にも、何と、カトリック系病院にて、死んだんだとさ。これが、本当の「竜頭蛇尾」だ。この事の為に、残してあったか。
それで。何時解散するかと、思いきや。解散せずに。まだ、やってるらしい。
しかも、協会名まで、変更してだ。だから、未熟者青少年等、また引っ掛かってしまう。
我われ年齢重ねた者は、その経緯を承知してるが故。もう騙されない。騙されようとも、想わない。
その協会名なるものさえ。教会と名付けぬは、『確信犯』故か。
厚かましいにも、程がある。我われには、その体質から生じるであろう。臭いが、鼻を突く。
それは、御代を越えれば。『臭い芝居』に形をば変えて。なお、今度は。
我われの呼吸を、我われ自ら己が鼻を抓むという行為。それによって、我われの片手の自由をも奪い。詰まる処、我われが同胞大和民族の、抱える同朋障がい者。
彼らを助ける。盲人への手引き。車椅子押す片手。そして、手話まででなくとも、ジェスチャー。それらの行為を遮断する、邪魔をしてはいまいか。
その疑惑は、拭い切れない。「公共の福祉」に反しない限りは、はよく口外される。
後生大事な、自己の伴侶を決める。その自由権利をば、何故。かくもあっさり、投げ出してしまうのか。情けない。解せない。
それ程、君たちは、自己の頭で考える事。それを、放棄したんか。何故、抵抗しない。抗して闘わないのだ。
50年前。関東は首都圏。都内某所で、ふたりが『殉死』した。後世、それは、「諌死」が定説となった。
「憂国」が、「言霊」となって。飛び回った。しかし彼らは、「昭和の人」だろう。紛れも無く。そうだろう。皆、慄いただろう。そんな真剣、あったんか。
冒頭に被せれば。突っ撥ねられたんだろう。土俵の外に。
今は、「令和」だ。昭和ではない。御代が違うのだから。
兵庫、もとへ。標語も違わなければならない。これからは、対「亡国」だろう。
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冒頭に掲げた、批判も、批評も。更に、時には。反論も。
何に対してか。それは、各自の自由な裁量に、帰する。
ここは、細々とやってるブログ。単行本でも、全集でもない。
しかし、免れないは、私の主観やキャラクターや、今日に至る経路であり、それでもの実存であるからして。
対コロナ禍下。
対費用効果。浪費消耗の停止。古典である、節約倹約の奨励に鑑み。
先ずは、キムチ臭い芝居に騙されぬよう。即ちキムチ独裁を含む半島に注意怠る事なく。
そして、『脂ハムの末えい』に煩う事無く。即ち、「ファティマ第三の秘密」は継続中の教会から離れて。
更に、大陸等のエバンジェリストでない。
ここは列島。その居場所から、実存しよう。
アーメン
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